カント研究会第193回例会(2005年6月26日 於:埼玉大学東京ステーションカレッジ)

中島義道著『悪について』(岩波新書、2005年)合評会

 

道徳原理「密輸入説」の行方

御子柴 善之

はじめに

A・シュヴァイツァー『文化と倫理』より

「カントは、かれの倫理的なものの深められた概念に相応する倫理を発展させることにとりかからない。だいたいにおいてかれは、既存の功利主義的倫理を定言命法の保護のもとにおくより以外の何ごともしない。堂々とした表玄関のうしろに、かれは貸長屋を建てたのだ。」(氷上英廣訳)

 

1、筆者の問題関心の中心とそれへの問い

「悪にまつわる私の唯一の関心は、善人であることを自認している人の心に住まう悪である。」(C-D)この問題意識から、人間は「善くあろう」とすればするほど「必然的に悪に陥る」と展開することは可能なのだろうか。

       シュヴァイツァー「疚しくない良心などは、悪魔の証明である。」(前掲書)

 

論点 帯にある「どんな善人も悪である」が中島氏のことばであるとすると、ひとりの人間が同時に善人でも悪人でもあることになる。翻って、中島氏が「極悪人であろうと、(中略)善意志を有している」(13頁)あるいは「われわれはいかなる悪行をなそうとも、その行為の開始においてそれを思いとどまるべきであると意志している」(172頁)というとき、この状態が認められることになる。すなわち、ある時点での意志が善くかつ悪いという状況が存在することになる。これはカントが『宗教論』で標榜する「リゴリズム」(cf. Rel.22)に抵触するのみならず、善悪を意志の質と考えることを困難にするのではないだろうか。

(付随する論点 この著作を通して中島氏は、人間が「善意志」を有するという立場を採っているようだが、これは可能な立場だろうか。「法則の表象に従って行為する能力」というカントの意志の定義は、それが「善」であることを保証するのだろうか。)

 

解決方法1 件の「善人」を「外形的に善い」(34頁)あるいは「(ずる)賢い」(55頁)の意味に読みかえれば事柄は容易に解決するが、それでは中島氏固有の問題意識の深みからは遠ざかってしまう。あるいは、「適法性に向かおうとする人間の意志そのもののうちに、悪の源が隠されている」(65頁)という言い方に基づくなら、これが中島氏の見方なのだろうか。この見方は根本悪に関しても(85頁)、嘘に関しても(100頁、198頁から199頁)反復される。なお、外形的に善い行為に熱心に取り組むことは「みずからを道徳的善さに背く者へと形成していくことなのである」(193頁)と述べるとき、この解決方法内部での中島氏の問題意識は深化しているが、問題の「外形的に善い行為」が、「外形的にも善い行為」ではなく「外形的に善いだけの行為」に過ぎないという断定が何に由来するのかが不分明ではないだろうか。なお、中島氏の「悪」理解の最深部は、次の箇所であろう。すなわち、文化的背景の中で私たちが「外形的には適法的な行為を実現する」(199頁)という、まさにそのことが「われわれに道徳的に善い行為を控えさせている。適法的行為を実現しようという欲求がなければ、われわれは転倒を犯すこともなく、根本悪にまみれることもないであろう。」(199頁から200頁)この理解に賛嘆しつつ同意したとしても、それは<同時に悪ではない善人>を排除することにはならない。

 

解決方法2 「外形的に善い」行為が実現するのは、心の底から「うぬぼれてなんかいない」と語る人のarrogantiaに基づくと考えてみる(41頁)。しかし、この「うぬぼれ」理解を承認してなお、これは一面的な断定ではないかとの疑念が払拭できない。当人が「うぬぼれ」ているかどうかは当人も含め、誰にも分からない。「分からない」ことについて、一方的に消極的な評価を下すことに問題はないだろうか。しかし、中島氏は、「自己に常に批判的な」(86頁。なお148頁には例外的な表現が見られる。)人までも射程に入れて、この攻撃を繰り返す。その根拠は、根本悪において「本人も自覚していない心情の深いところでは、大仕掛けの転倒が起こっている」(196頁)に求められる。これでは、根本悪に対する心術の革命を語ることが無意味になるのではないか。

(なお、194頁以下で繰り返し引用される「最も善い人間(der Beste)」は、『宗教論』(Rel.36)における同じ段落の「最も邪な人間(der Ärgste)」と対をなすがゆえに、「最も道徳的に善い人間」とは読めないかもしれない。)

 

2、「善意志」は「道徳的に善い行為をひき起こす力をもつのでなければならない。」

13頁) →「密輸入説」を撤回しつつ、カントの問題意識に付き合うのだろうか。

問いの立てかえ 「道徳的善さを実現せよという定言命法は、その絶対的な威力にもかかわらず、なぜすべての人がほとんどの場合、それに背いてしまうのか。」(27頁)

 

論点 中島氏が立場を変更したかに見えるのは、まず第一に、過去の行為に向けて問いを立てる、言い換えれば、すでに実現してしまった行為に対して問いを立てるからであり、しかも第二に、定言命法に背いた行為に対して立てるからである。同氏は、やはりカントの所説が「自然法理解」や幸福を求める自己愛的存在としての「人間観」から導かれていると考えている(42頁から43頁、108頁、153頁)。ここに「密輸入説」のこだまを聴き取ることができる。しかし、件の人間観は密輸入されたものではないし、定言命法を「自己愛という条件に限定されない命法」(45頁)さらには「完全性や神の意志という条件にも限定されない命法」(141)と読みかえることで問題が解決するわけでもない。さらには、定言命法を、適法的行為ではなく道徳的行為を導くための方式であると正しく解釈しても(108頁)、解決するわけではない。

 

解決方法1 カント倫理学を幸福への欲求と突合せ、それをGegengewichtGMS405)として善意志の「力」を描き出す(66頁から67頁、73頁)。これは、ときにカント自身の採用する方策だが、この語りは善意志の力や定言命法の拘束力に届くものではなく、そこで描かれるのはア・ポステリオリなものに留まるのではないか。あるいは、徹底的に強大化した幸福への欲求に対抗する場面を想定することで、「闘争状態」(121頁)にある道徳法則の「威力」(73頁)の次元をア・プリオリなものとして思い描かせようとしているのだろうか。

解決方法2 道徳法則に「真実性の原則」(90頁)の意味を見出し、それを「約束は守るべきであると真に思っているがゆえに、守る」(同頁)と例示することで、「力」の問題を回避する。その際、中島氏は、カントが「真実性=誠実性は、はじめから自己愛と両立しない」(93頁)ものと見なしていると解釈し、その理解をそのまま受け入れ、非適法的行為もまた自己愛に基づいているのだから、真実性の原則に対立すると述べる。しかし、この理解は(非適法的であっても)徹底した自己愛に生きることこそが誠実に生きることであるという立場を視野にいれないままに排除しているのではないか。むしろ、なぜ誠実に生きるべきなのか、という問いを立て、その根拠として道徳法則を見出すという手順が必要ではないか。

 

解決方法3 何が適法的行為であるかが明確であれば、その後で、その行為が道徳的であるとはいかなることかは明確に分かる(42頁、109頁、165頁)という主張を反転させ、定言命法の形式性ゆえに、人間は「何が適法的行為であるか、何が非適法的行為であるか」に永遠に悩み続けるべきである(109頁、113頁)と展開する。これはすべてを流動化させて、最初の問いを曖昧にするかに見えて、実は「悩み続けるべき」という当為意識の拘束力の根拠を問う点で、問いを先鋭化している。しかし、問いの先鋭化はもちろんその解決ではない(142頁、203頁)。

 

解決方法4 カント倫理学は「人類の発展史」という「肥沃な低地」を基盤に据えている(183頁)と主張することで、密輸入説を積極的に読みかえる。これは、立てかえられた「問い」(27頁)、すなわち悪の起源に関する答えを準備するものではあるが、善意志の力を説明するものではない。なお、第7章「根本悪」で、根本悪とは「善い性格を築き上げ、適法的行為を守りとおしている人々が犯す悪」(192頁)であると主張されるが、この引用における「善い」が「外形的に善い」である限りで、この主張に賛同する。

 

おわりに

中島氏の『悪について』は、ときに神的人心照覧者の立場を採りつつも、見事な行論によって「道徳的に善く生きる」ことの困難に関する理論的な「知」を提供する。ただし、倫理学が実践的学問として未来を志向するとしたら、このことは問題含みであるとも言える。仮に「適法的行為を自己愛に基づかずに実行することは、人間にとってほとんどできない。だからこそ、それは貴重なのであり、道徳的に善いのである」(119頁)と述べることで、道徳的実践の価値をその希少性によって高めるとしても、それは偉人伝好みの人間の気入るか、いわゆる偉人を引き摺り下ろすことに快感を覚える人間の劣情に加担することにしかならない。むしろ、中島氏がグリーンフェルト氏を例にとり、そこに「定言命法が真実味を帯びる」(129頁)のを見出すのであれば、その事情こそ分析すべきだろう。道徳法則への尊敬とは、法則の法則性の注視のことであり、「いま・ここで誰もがそうすべきだから、自分はそれを行うべきだ」という意識のことだと考え、自己の例外化に抵抗することだと考えるなら、もう少し身近に定言命法を引き寄せられるのではないだろうか。そこに自己満足が随伴するとしても、それは悪の徴表ではない。倫理学は「善」の名において次の一歩の踏み出すべき方向を示しつつ、それを踏み出す勇気が根こそぎにされそうになるのを防御すべきである。その意味で、本書はその名のとおり『悪について』である。

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