2006年10月28日、拓殖大学
カント『理論と実践』第二論文の内容と諸問題
1、この著作(三つの論文)の背景
著作名:「理論では正しいかもしれないが、実践には役立たないという俗言について」
発 表:『ベルリン月報』、1793年9月号
(1) 論文執筆の直接のきっかけ
ガルヴェが著作『道徳と文学と社会生活から得られるさまざまな対象についての試論』(1792年)
で、カント倫理学に批判的に言及した。
→岩波文庫130頁・133頁、岩波全集178頁・180頁
カントはそれに対する反論をすぐに執筆した(1792年7月30日付、ビースター宛書簡)。
→ しかしこれは『理論と実践』第一論文の執筆動機以外のものではない。
(2) 第二論文の周辺事情
@ 『宗教論』をめぐる問題
『宗教論』第二論文の『ベルリン月報』掲載不許可(1792年6月)に見られるような問題にカント
は巻き込まれていた。1793年に『宗教論』初版が刊行され、94年10月には宗教や神学に関する講述
を禁じられる。
A 『道徳形而上学』の準備/執筆
1792年、カントはすでに『道徳形而上学』を執筆中だった。
参照、1792年12月21日付 エアハルト宛書簡
1793年 5月12日付 フィヒテ宛書簡
B 著作発表後
この著作に対して多くの反響があったことをビースター(1794年3月4日付カント宛書簡)がカント
に報告しているが、そこでは特に1793年12月のゲンツの論文と1794年2月のレーベルクの論文が、カ
ントの所説に反対するものとして言及される。さらに同書簡には、ガルヴェがビースターに送った書
簡(1793年10月11日付)が同封された。そこでガルヴェは、第二論文が「最も印象深かった」と述べ
る。
引用1 ガルヴェが捉えた第二論文におけるカントの主張
「国民は、全体として、国民の諸権利を毀損した国家元首に対してでも、その権利を力によって守る
ことはけっして許されない。」(山本精一訳)『カント全集22 書簡U』岩波書店、231頁
引用2 カントのレーベルク批判:「ビースター宛書簡」(1794年4月10日付)より
「そうなると、理論を完全にするために(ということになっていますが、実際には実践を理論に代え
てしまおうとして)大変に必要だということで持ち上げられている実践(Praxis)が、どうしても策
謀(Praktik)になってしまわざるをえません。」
(山本精一訳)『カント全集22 書簡U』岩波書店、235頁
2、第二論文を理解するための問題
第二論文には、その外見上も内容上もその理解を困難にする要素がある。
(1) 外見上の問題
@ 論文全体の中ほどより少し前に、Folgerung(「結論」あるいは「以上のことからの帰結」と訳さ
れる)が位置する。その意味するものは何か。
A 論文冒頭よりホッブズ批判を掲げているが、ホッブズへの直接的言及が見られるのは、論文の後半、
それもかなり論述が進んだ部分においてである。
(2) 内容上の問題
著作全体のテーマである「理論では首肯し得ることが、実践には妥当しない、ということはない!」と
いう主張を踏まえ、この第二論文では、いかなる理論が問題になっているかを特定しなくてはならない。
理解1 社会契約論一般に対する批判を、根源的契約の観点から克服する。
→ これではホッブズ批判を掲げる必要がなくなる。
理解2 社会契約論一般に対する批判を根源的契約の観点から捉えなおすことで成立した「理論」がそれ
として首肯し得るものであるとして、それが「実践」には妥当しないという批判を想定し、それ
に前もって反論する。
→ このとき、ホッブズの「恐怖の論理」とカントの「理性の論理」が対立軸として設定され
る。カントは前者を「幸福主義」の表れと見て、それに「自由」に立脚する政治学(ここ
では国内法の理論)を対置する。
→ この理解に従えば、Folgerung以下が本論ということになる。
3、第二論文の内容
(1) 市民体制設立のための社会契約
@ その特殊性
・ 結合そのものが目的であり、無条件の第一の義務である。
・ その義務としての目的は「公的強制法の下での人間の権利」の実現である。
・ 外的権利一般は「自由」概念に由来し、強制法はア・プリオリに立法的な純粋理性に由来する。
(幸福のような経験的目的には由来しない。)
A 市民状態のア・プリオリな三つの原理(国家設立の原理)
・ 社会集団の成員の、人間として自由であること
・ その成員が他のあらゆる成員と臣民として平等であること
・ 公共体のあらゆる成員が、市民として自立していること
→ これらはフランス革命のモットー(自由・平等・博愛)を想起させるが、「博愛」に代わって
「自立(Selbständigkeit)」が置かれている。「博愛」をカントは『道徳形而上学』の徳論で「他
人に対する不完全義務」としての「愛の義務」に位置づける。なお、権利論としての法論では「支
配者」に関連づけ、das Wohlwollen des Beherrschers([291)やgnädiger Herr([294Anm.)が
語られることがある。
B 「人間としての自由」について
・ 強制法の目的は、幸福の実現ではなく自由の両立である。
・ väterliche Regierungとväterländische Regierungの相違
前者は臣民の幸福実現に介入し「専制」に至るが、後者は、特定の公共体や土地を継承していくも
のと見なすものの、それは人間の権利を守るためだという考え方であり、これをカントは
patriotischと呼ぶ。
C 「臣民(共に強制法に服従するもの)としての平等」について
・ 公共体の全成員は他人に対する強制権をもつが、元首は例外的に強制されない。国家元首は強制法
に服従せずに全法的強制を遂行するが、もし国家元首が強制されるとすると、無限背進が生じてし
まうから。
・ 臣民の平等と所有物の多寡における不平等は両立するが、世襲的特権は認められない。
D 「市民(共に立法するもの)としての自立」について
・ 参政権という点では、すべての臣民が平等なわけではない。市民ならぬ庇護享受者もいる。
・ 公法は公的意志の働き(Aktus)であり、それを可能にするのは国民(Volk)一同の意志に他な
らない。ここで問題なるのが(投票を介した)「すべての人の意志の統一」であり、それによっ
て成立可能になるのが「根源的契約」である。
・ 投票権をもつ市民の要件:自然的要件以外では、「自分自身の主人」であること、すなわち、生
計を立てるための財産をもっていること。ただし、この要件を明確に規定するのは困難であると、
カントは告白する。
・ 大地主もそうでない人も、一人一票でなければならない。
・ 公的正義を示す法(の制定)においては、投票権をもつ全員が一致していなければならないが、
それが期待できない場合、それも代表者の投票においてそのような場合でも、多数決をもって
十分とすることに全員一致があると想定すること、すなわち「契約」によると想定するという
原則が、市民的体制設立の最上根拠でなくてはならない。
(2) 以上のことからの帰結([297ff.)
@ 「根源的契約」こそが市民的体制設立を可能にするものである。
・ これは「あらゆる私的特殊意志をひとつの国民(Volk)においてひとつの共同体的公的意志へと
連合させること」である。内容的には、「あらゆる立法者に対して、各人が立法する際に、その
法が一致した意志から生じ得たような仕方で立法するよう拘束し、そしてひとりひとりの臣民を、
当人が市民であろうと意志する限り、あたかも当人がそのような意志に同意したかのように見な
すよう拘束すること」。
→ すなわち、何らかの全員一致、という理念に基づいて立法すること。
・ これは歴史的「事実(Faktum)」ではなく、「理性のたんなる理念」である。
A 「根源的契約」は立法者の判断にのみ妥当し、臣民の判断には妥当しない。
・ 自分の幸福を失わせる立法にも臣民は従うべきである。問題なのは、幸福ではなく権利だから。
これが、公共体に関わる全格率の源となるべき最上原理。最重要なのは、各人の自由を守る法的
体制である。なお、(臣民の)幸福追求を第一原理にしてはならないのは、国家元首も同じこと
である。
→ 「あらゆる国内の反抗を鎮圧する威力なくして、法的に存立する公共体は実存在しな
い。」([299)
・ 公共体を破壊する反抗的行為はすべて最高度の犯罪である。この禁止は無条件的であり、(臣民
の考えからすれば)国家元首が立法者としての資格を失うような圧制をもたらしたとしても、臣
民には暴力的に抵抗することは許されない。
→ 理由:すでに存立している市民的体制では、国民はその体制がどうあるべきかを決定する確
固たる判断を持たないから。
← この理由づけは不分明。しかし、臣民として見られた国民の判断基準が幸福であるとすれば、
それはカントの所説の範囲内。
→ あくまで「最上の公的司法(機関)」は国家元首である。
B 抵抗権論者の批判
・ アッヘンヴァルの『自然法』からの引用。:抵抗権を認め、その行使の後に来るものを自然状態
の再来とする。
← カントはこれに対し、自然状態を招来する権利追及の仕方を不正であると断じる。それは権
利の喪失をも招来するので自己矛盾しているから。
・ 抵抗権論者の性向:a)権利の原理を問題にしているときに幸福原理を混入する。
b)理念としての根源的契約を「現実」と思い違える。
← b)の理由づけには疑問が残るが、理念であることを踏まえれば、行為選択の「理性」的性格
も維持されると考えているのだろうか。
・ 普遍的意志がなければ、命令者への強制もない。普遍的意志を介さない強制はないから。普遍的
意志があっても、命令者に向かって行使できる強制はない。その場合は国民が最上の命令者だか
ら。
← この理由づけは容易に理解できない。普遍的意志は「理念」であり、それが「現実」という
ことはない、したがって、国民が最上の命令者であることもない、と言いたいのだろうか。
(3) 抵抗権否定における理論と実践([303ff.)
@ イギリス連合王国の憲法の不備
・ 君主が1688年の契約を破った場合の規定を欠くがゆえに、反乱の権利に余地を残している。
→ カントはここで年号を付すことによって、英国の契約が「現実」のものであるがゆえに、
不備を指摘されるのだ、と言いたいのだろうか。
A カントの主張「国民は国家元首に対して、強制権ではないにせよ、決して失うことのない権利を
もっている。」
B ホッブズ(de Cive、第7章14節)の主張とそれへの批判
・ ホッブズの主張:国家元首は契約によって国民に対して何ら責務を負うこともなく、市民に対
して不正を行うこともできない。
→ カントは、この主張における「不正」を、市民の元首に対する強制権を生む侵
害と理解してよいという限りでは認める。
・ カントの主張:臣民は元首が自分たちに不正をしようとは思っていないという前提に立ってい
るのだから、自分にとって公共体に対する不正と思われることが元首によって行われた場合、
市民がそれを表明する権能を認めるべきである。どんな元首も人間だから、誤りを犯すものだ
し。
C 「言論の自由」が「国民の権利の唯一の聖域(das einzige Palladium der Volksrechte)」であ
る。
・ この自由が体制への愛と尊敬の範囲を超えることはないし、他人の自由との両立の範囲を逸脱
することもない。この権利を認めないなら、国民からあらゆる権利要求を奪うことになり、さ
らには国家元首から国政上重要な知識を得ることをも不可能にする。
→ 「国民が自分自身について決められないことは、立法者もまた国民について決めること
ができない」という命題が、国民の(消極的)判定の権利を包含している。
→ 根源的契約が、将来にわたる権力行使の改善可能性を残さないなら、そうした契約は(人
間性の規定に反しているがゆえに)無効である。
こうして「契約」を時間性の次元から切り離すことの意義が示唆され、かつ「改善」の
可能性が時間性の次元で確保される。
・ 公共体には、強制法に従った国家体制の機構に「服従」することとともに「自由の精神」がな
くてはならない。
(4)まとめ([305f.)
@ よい国家体制が問題なる場合に、純粋理性原理は素通りされ、理論が否認される。
・ 法的体制が長く続くと、人々は自分の現在の状態に従って幸福や権利を考えるようになり、改
善のための冒険よりは受身の状態を選ぶようになるから。
・ その結果、理論ではなく、実践の経験に基づいて国民の福祉が語られるようになる。
A 国内法の理論は、ア・プリオリな原理に基づき、理性に帰属し、むしろ実践の妥当性はこの理論
に依存する。
B この期に及んで、人間の「こころの頑なさ」を理由に、怜悧の規則に従う威力を権利論に引き入
れるのは、「死の跳躍」である。
・ 権利ではなく力に依拠しようとすれば、その方が暴力革命という「死の跳躍」を惹起するだろ
う。他方、理性が権利を語れば、それに耳を傾けないほど人間本性は劣悪なものではない。
おわりに
「政治のリアリズム」が語られ、ホッブズ的政治哲学がそれを代表するものとして位置づけられ
る。しかし、カントは(ホッブズ自身の所説とはいったん別に)そこにリアリズムを見る論者に対
して、その帰結主義的・幸福主義的性向を指摘し、むしろカント的理性的(理論的)政治哲学の方
に実践的リアリズムが認められることを主張する。その点で、ホッブズの所説に部分的にのみ言及
する第二論文は、その全体においてもホッブズへの反論となっている。