グローバル・エシックス研究会/「9.11」を多角的に考える哲学フォーラム
2005年12月18日 於 明治学院大学白金校舎
グローバル・エシックスと自然環境
― 都市生活とケア的関係 ―
御子柴 善之
1、グローバル・エシックスとは何か
(1)研究開始当初の見解
@社会倫理としてのグローバル・エシックス
A役割批判としてのグローバル・エシックス
<基本的に閉ざされた空間である地表面に生きる人類がいかなる社会制度を実現すべきか、その社会において各人はいかなる役割を担うべきか、を批判的に検討するのが学としてのグローバル・エシックスである。>
→ここでの「各人」はたんなる「個人」ではなく、同時に「世界市民」である。しかし、個人と世界市民との差異はどのように有意に語れるだろうか。
個 人 既存の「公的」権力に対して、それを「下から」制限する概念。
世界市民 既存の「公的」権力に対して、それを「上から」制限する概念。
→個人に定位すれば、そこにはアトム化した「個」の個別性しか現われないが、
世界市民に定位すれば、そこからは地上に散開する多様性が視野に入る。
(2)先行研究に現われた見解
@グローバル・エコロジーとグローバル・エコノミーに対して
1997年メルボルン大学で開催された会議「環境正義:21世紀のグローバル・エシックス」(Nicholas Low ; 1999) → 資料1
A帰結主義の立場(Robin Attfield ; 1999) → 資料2
帰結主義者は帰結の見極めづらいところに目を向けることをこの倫理の特性と見る。
B自然法の立場から(Joseph Boyle ; in Mark J. Cherry ; 2004) → 資料3
グローバル・エシックスと自然法思想との差異を重視し、前者を道徳多元主義と見た上で、そこに合意形成上の困難があることを指摘することもある。
→グローバル・エシックスへの期待は、個人の視界に捉えきれないような多様性・不透明性を視野に入れつつ、一方で、世界市民の行為原理を提示し、他方で、具体的な多様性を生きる人々にその役割を批判的に担う必然性を伝えることではないか。
(3)地球環境問題とグローバル・エシックス
@人間中心主義、非人間中心主義、人間非中心主義
→人間中心主義は先進国中心主義であり、非人間中心主義では人間の責任を問えない。
→地球環境問題における人間非中心主義
人類が地球におけるエネルギーや物質の循環の中心に位置するわけではないこと、それにもかかわらず人類(特に先進国)が科学技術によってそこに大規模な侵襲を加えていること、この二点を意識しつつ人類の行為選択を規制する倫理的立場。
A「地球との戦争」(戸田 ; 2003)
Bグローバル・エシックスにおける多様性の問題
自然の多様性、文化の多様性、南北経済格差、都市と非都市
「環境破壊は主としてエリートによってもたらされ、環境被害は非エリートにしわ寄せされ、環境の修復は非エリートの犠牲を伴いながら行われるのである。」
(戸田 ; 1994)
2、都市生活者の環境倫理
(1)「都市」への視点
@鳥インフルエンザからの問題提起
都市の外部は、都市生活者にとって単なる手段なのではないか。
A都市概念の二重性(藤田 ; 1991)
a 物的構造上の物的構造上の大聚落
b 自治体としての性格を中心とした生活様式
B都市への人口集積(UNDPの報告書から) → 資料4
(2)「都市」空間の性格
@人工の生活空間
A徹底的に人工化される傾向 → 自然からの乖離
B「非自立的」空間(和気 ; 1997) → 分解力、生産力の欠如
(3)「都市」生活者の性格(ジンメル、講演「大都市と精神生活」1903年)
@「神経生活の昂進」→ 悟性による抵抗 → 人間の画一化 → 人間同士の反感
「決定的なのは、都市生活が食料確保のための自然との闘いを人間をめぐる戦いへと変化させたこと、すなわちここでは戦い取られたものが自然によってではなく人間によって与えられるということ、である。」
A「倦怠(Blasiertheit)」
「倦怠した人にとって、事物はどれも同じくすんだ灰色の色調のうちに現われ、何も
のも他のものに対して先取されるべき価値をもつとは思えない。」
(4)都市空間の問題性
@「自己家畜化」 → 「自発的束縛」 → 「二重管理構造」(森岡正博)
「人工環境化であるが、人間は都市を形成し、自分たちが生きていく空間を極度の人工環境に変えてしまった。家、道路、上下水道、自動車、電車、電気、そういうものに囲まれてわれわれは生活している。朝早く起き、空調のきいたオフィスで仕事をしている姿は、家畜工場のニワトリとどこか似ている。」(森岡 ; 2003)
A「人間最大の作品」の地球大の広がり(ヨナス)
a「かつて人間ならざるものの世界における飛び地(Enklave)だった人間たちの都市は、地上の自然の全体に延び広がって自然のもっていた場所を簒奪する。人工物と自然物の間の差異は消滅し、自然物は人工物の領域に飲み込まれたのである。」
b「次の世代の人間のために世界が存在するように、グローバルな『都市』は自らに法律を与えねばならない。」(Jonas ; 1979)
B自然に対する情緒的感情の問題
a レオポルドの「土地倫理」の問題
b 「生への畏敬」(シュヴァイツァー)の喪失
(5)都市生活者固有の倫理的責任
@都市の広がり → 都市生活者の責任
「大都市の最も意義深い本質は、その物理的境界の彼方のこのような〔その生活が都市内に留まらず国家や国際社会に広がっていくこと:引用者〕機能的な大きさにある。そして、この作用がふたたび還帰して作用して、その生活に重要さ、重大さ、責任をもたらすのである。」(ジンメル)
A人工空間に生きることの責任
例:ゴミの排出量の削減、公共交通機関を使用
B神経生活昂進に関する責任
例:環境問題対策における「平静さ」、「倦怠」との戦い
C「非自立的」空間に生きることの責任
例:生産と消費の分離への責任、発展途上国への責任
「諫早の農産物を長崎で消費し、長崎で出た生ゴミを堆肥化して諫早の農地に還元す
ることは難しくないが、米国から1000万トンの農産物を運び、日本から数百万ト
ンの堆肥を返送することは非現実的であり、輸送による環境負荷も大きい。」
(戸田 ; 2003)
3、自然環境に対するケア的関係
グローバル・エシックスが具体的な役割倫理の姿をとる場面を、(地球環境問題よりは空間的に限定されたものとしての)自然環境問題に対する対策に探り、それをケアの側面から捉える。これはまた都市生活で見失われやすい側面でもある。
(1)ケア的関係とは何か
@メイヤロフの「専心(devotion)」
「他の人格をケアするとは、最も深い意味においては、その人が成長することを助けそしてその人自身を実現することを助けることである。」
「〔ケアリングにおける:引用者〕無私(selflessness)は、私が純粋に関心をもっているものに引き寄せられることに伴う無私、すなわち“もっと私自身”であることに伴う無私に似ている。このような無私には、高揚した気づき、相手と自分の双方へのさらに豊かな感受性、そして私固有の力の十全な使用が含まれている。
相手をケアすること、相手が成長することを助けることにおいて、私は私自身を実現するのである。(中略)私は、私自身を実現するために他人の成長を助けようと試みるのではなく、他人の成長を助けることによってこそ私は私自身を実現するのである。」
→ ここに相互性・互恵性(reciprocity)を見出すかどうか。
Aコンラディの九つのテーゼから
第1テーゼ「ケアの表示するのは人間の相互行為である。自己への配慮を除けば、ケアは少なくとも二人の人間によってかたち作られる。」(S.45)
第6テーゼ「相互行為としてのケアに参加する人々が自律的である〔度合いは:引用者〕さまざまである。尊敬は自律の想定を必要としているわけではない。」(S.55)
第7テーゼ「ケアの関係はふつう互恵的ではない。傾注することは互恵性と結びついてはいない。」(S.56)
B「尊敬(Achtung)」から「傾注(Achtsamkeit)」へ
(コンラディの言う傾注)「人々が他人の方を向き、他人を真摯に受け止め、他人の言葉に耳を傾け、他人のために配慮すること、また人々が思いやりを受け入れ、それに反応し参加すること、これらのことが関心事であること。」
(2)自然環境への傾注
@相互性を離れた相互行為
A世界市民的見地からの多様性の発見 → 訪問権の積極的意義
→ これはケア倫理が高唱しがちなコンテクスト主義を意味するのでも、K. Warrenが「状況づけられた普遍主義(situated universalism)」(Low, pp.132-134)と呼ぶものでもない。地球環境問題の名において人類が「地球」に侵襲を加えてきたこと、加えていること、加えるであろうことを意識している人は、当人がそこに位置づけられた(すなわち多様な)自然環境に対して、もしそれが人間の活動によって不可逆なまでに傷つけられる恐れがあるなら、それに傾注する役割を担うのみならず、そうした役割を担っている人々を尊重し、そうした役割を担えない「構造的暴力」の下にいる人々の自由を実現すること。世界市民的見地がこの観点をもたらし、その遂行における紐帯をなす・・・。
参考文献
武内和彦・林良嗣編『地球環境と巨大都市』、岩波講座地球環境学8、岩波書店、1998年。
戸田清『環境的公正を求めて』新曜社、1994年。
戸田清『環境学と平和学』、新泉社、2003年。
新田慶治『生活空間の自然/人工』岩波書店、1996年。
アルネ・ネス、斎藤直輔・開龍美訳『ディープ・エコロジーとは何か―エコロジー・共同体・ライフスタイル―』文化書房博文社、1997年。
藤田弘夫『都市と権力―飢餓と飽食の歴史社会学―』創文社、1991年。
森岡正博『無痛文明論』トランスビュー、2003年。
アルド・レオポルド、新島義昭訳『野生のうたが聞こえる』講談社学術文庫、1997年。
和気静一郎『ゴミと人間』技術と人間、1997年。
Robin Attfield, The Ethics of The Global Environment. Edinburgh University Press 1999.
Mark J. Cherry(ed.), Natural Law and The Possibility of a Global Ethics. Kluwer Academic Publishers, Dordrecht/Boston/London 2004.
Elisabeth Conradi, Take Care. Grundlage einer Ethik der Achtsamkeit, Campus Verlag, Frankfurt/Main 2001.
Takashi Inoguchi, Edward Newman, Glen Paoletto(ed.), Cities and the Environment. New Approaches for Eco-Societies. United Nations University Press, Tokyo・New York・Paris, 1999.
Hans Jonas, Das Prinzip Verantwortung. Versuch einer Ethik für die technologische Zivilisation(1979). suhrkamp taschenbuch, 1984. 加藤尚武監訳『責任という原理 科学技術文明のための倫理学の試み』東信堂、2000年。
Nicholas Low(ed.), Global Ethics & Environment. Routledge, London and New York 1999.
Milton Mayeroff, On Caring. Harper Perennial, New York 1990.
Georg Simmel, Die Großstädte und das Geistesleben. Georg Simmel・Gesamtausgabe
Band 7. suhrkamp taschenbuch wissenschaft, 1995. 川村二郎編訳『ジンメル
エッセイ集』平凡社ライブラリー、1999年。
Georg Simmel, Philosophische Kultur. Georg Simmel・Gesamtausgabe Band 14.
suhrkamp taschenbuch wissenschaft, 1996.
Georg Simmel, Der Konflikt der modernen Kultur. Georg Simmel・Gesamtausgabe Band 16. suhrkamp taschenbuch wissenschaft, 1999.