グローバル・エシックス研究会

永遠平和論部会

                                                                                                                                             200663日(明治学院大学

                                                                                      御子柴 善之      

              第二補説「永遠平和のための秘密条項」の諸問題

 

はじめに

(1) この第二補説は、179612月に刊行された第二版で追加された。

   → なぜ追加されたのか。

   → なぜ「秘密条項(Geheimer Artikel)」として掲げられたのか

→ なぜここに追加されたのか。

(2) この追加に伴い、初版でたんにZusatzとされた表題がErster Zusatzに変更さ

   れた(A360)。

→ 二つのZusatzは、どの箇所に対するものか。

 ― さまざまな目次から

 a) 第二章(確定条項)までの全体に対するもの

岩波文庫(新版)、土岐訳

      b) 第二章(確定条項)に対するもの

        Ak版、PhB(旧版)、PhB(新版)、Reclam版、Weischedel版、

岩波文庫(旧版)、理想社版全集、岩波版新全集

 

1、第二補説に何が書かれているか

 

(1)各段落の要旨と問題

第一段落

@ 公法上の審議に秘密条項が含まれるのは、その条項の内容上、矛盾している。

  Q 「公」法と「秘密」の矛盾が指摘されていると表面的に読んでいいか?

A 秘密条項を記録させる人格の尊厳の観点からは、自分がその創設者であると公

    に発表することは思わしいことではなく、そこに秘密が成立しうる。

  Q1 誰の誰に対する「秘密」条項?

    国家の市民(他国の人々を含む)に対する秘密なのか? そうだとすると、

      この補説は国内法・国際法を念頭に第二章に対するものということになる。

  Q2 公開できない格率

    公開できない格率に従って行為することを、カントは反道徳的と見なし、

        その行為者の尊厳を侵すものと考えているはずである。しかし、ここで

        カントは<尊厳のための秘密>を語る。これが可能になるのは、第一に、

        目的から格率を導出するという法論の一般構造に従い、永遠平和という

        目的から第二段落で示される命題を導出しているからであり、第二に、

        この「秘密条項」が実は公開可能なものであり、それによって毀損され

        る尊厳は、本来の「人間性の尊厳」ではなく、職務上のdignitasに過ぎな

        いからではないだろうか。

第二段落

@ 「この類の唯一の条項は次の命題に含まれている」

  カントは秘密条項を命題化するのではなく、それを含む命題を提示する。

  Q1 なぜ「唯一」と言えるのか。

  Q2 あえて条項化すると、どのような文言になるか。 → 第三段落

A 秘密条項を含む命題の提示

  「戦争の準備を整えた諸国家は、公的平和の可能性の諸条件に関する哲学

     者たちの格率を参照すべきである。」(「公的平和の可能性の諸条件に関す

     る哲学者たちの格率は、戦争の準備を整えた諸国家によって助言として受け

     止められるべきである。」)

  Q1  原文のzu Rate gezogen werdenにおけるRatをどの程度の強さで読み

   次の段落のbei Untertanen(den Philosophen) Belehrung zu suchenにつ

   なげるべきか。

  Q2 ここで「哲学者の格率」について「国家」に求めていることは、まえが

   きで「理論的な政治家」との論争において「実践的な政治家(Politiker

   =世事に明るい政治家(Staatsmann)」に求めていた態度(A343)とど

   のような関係にあるか。

 

第三段落

@ 国家は哲学者たちに戦争遂行と平和創設の普遍的格率について自由に公的に

 語らせるであろう。(国家は黙ってそれを促すであろう。)

  ← これは国家の立法する権威にけちをつけるように思われるが、むしろ国

   家にはそれが得策(ratsam)である。

  ← 哲学者は禁止されなければ進んで発言するだろう。

  ← この件に関する国際法は必要なく、これは普遍的(道徳的に立法的な)

   人間理性の義務づけに含まれている。

Q1 哲学者は禁止されない限り、戦争や平和についておのずから発言すると

 言えるか。

  これは原理的な発言ではなく、歴史的な事実に立脚した見解だろう。

Q2「普遍的(道徳的に立法的な)人間理性の義務づけ」とは何か。

  これは「純粋実践理性の原則」そのものである。たとえば、「何か国家

 にとって不都合な発言があるなら、そうした言論の自由は認めないことに

 しよう」という格率は、自己矛盾的である。なぜなら、この格率は、言論

 の自由を欲する人々の存在を前提にしているが、そうした人々にとって言

 論の自由が抑圧されることは不都合である。したがって、普遍妥当性の観

 点からすれば、件の格率は公表すれば抑圧されるはずのものであり、自己

 自身の例外化なしには成立しないことになるからである。

〔注記〕この箇所について、発表後の質疑では、指摘された「自己矛盾」は

成立しないのではないか、という指摘がなされた。それに対して、自己矛盾

が成立するという意見も出されたが、発表者としてはこれが「意欲の自己矛

盾」の話であることを確認した。

A 哲学者(の原則に関する発言)に耳を傾ける(hören)こと

  ← これは哲学者の論じる原則の(国家権力の代理人としての)法律家の発言

   に対する優越を意味しない。

  → 法律家は、その正義の剣を、現行法上の正義回復に用いるのであり、正義

   の天秤全体を脅かすものに向けて振りかざしはしない。

    vae victis (Wehe den Besiegten!) ガリア人ブレンヌスが、ローマ人に解

   決金を支払わせたときの言葉(リヴィウスによる)。cf. PhB117.

  ← (道徳性の面でも)哲学者たる法律家なら現行法の改善について議論する。

    カントは『諸学部の争い』では、法律学に関連して、哲学者を「自由な法

   学者(Rechtslehrer)」(Z89)と呼んでいる。

B 法学部、神学部、医学部に対する哲学部の地位

  → 前三者は権力を伴うので、哲学部に対し優位にある(と思っている)。

  → 前三者は同盟を結んで哲学部をたいへん低い地位に貶めている。

    “Sie(Die Philosophie) sei die Magd der Theologie.”

    ← たいまつを掲げて諸学を導くのは哲学の方である。

 

第四段落

@ プラトンの哲人政治批判?

 理由 権力の所有は、理性の自由な判断をどうしても損なうから。

A 国家における国王あるいは「国王のような諸国民(Königliche Völker)」は、

 「哲学者階級」に公的に語らせるべきである。

   → 国王と哲学者の職務の相違が明らかになる。

     → 哲学者階級(の言説)は、プロパガンダではない。

 Q 「国王のような(平等の法則に従って自己支配を行う)諸国民」とは?

  a) ヘッフェの場合(Höffe177f.

 「カントは、改革の労苦を引き受け法道徳の諸原則を承認している諸国民に対し

 て、哲人王の民主化の仕上げとなる名誉称号を授ける。彼はそうした国民を「国

 王のような国民」と呼ぶのである。なぜなら、そうした国民はその共同生活を法

 に従わせ、その法を当該領域の道徳に従わせるからである。」

←ヘッフェはこの理解を『道徳形而上学』(Y405)の用例から導く。

「ある国民がköniglichであるのは、その市民各人がいわばKönigであるときである。」

←ヘッフェは、この条件は市民が立法者でありかつ臣民として法に従うことで充た

されるのであり、その意味で「抜きん出て高い教養レベル」を必要としない、と述

べる。

 b)「支配形態」面に向けての発言

 ヘッフェと共にこの表現を『道徳形而上学』における(Autonomieではなく)

 Autokratieに読む。ただし、『永遠平和のために』においてAutokratieは、支配形

 態に関して「君主制」を意味する言葉として用いられている([352)。第二版で、

 その意味をVölkerに重ねた理由は何か。そこには、第一確定条項の記述で隠されて

 いた、民衆制に代議制を導入することで、共和的な民衆制を構想する可能性が見出

 されているのではないか。→資料1

 

2、第二補説がなぜ必要性だったか

 

(1)カントの思索から

@ 世界市民の役割を哲学者に限定?

「カントは、この観衆〔当初『永遠平和のために』の読者として想定された世界中の

啓蒙された市民からなる公衆〕のもつ政治的な含みについては不安を感じ、・・・」

BohmanLutz-Bachmann2, 邦訳7頁、Cf., ibid.,12、邦訳20頁)

→ボーマンはこの見解におそらくは第二補説末尾の「哲学者階級はその本性上、暴徒

 化したり徒党を組んだりしかねないものではない」([369)というカントの文言を

 関連づけている(BohmanLutz-Bachmann186, 邦訳173頁)。

←哲学者はここでも「普遍的人間理性の代弁者」であり万人(Gerhardt173

→民衆の哲学者に対する無関心を語るカント(Z89

A キケロの理念の採用〔ヌスバウム〕(BohmanLutz-Bachmann38

 

(2)当時のカントを取り巻く問題状況から

@ 宗教論問題との関連(朝永140頁、宇都宮136頁)

A 17954月のバーゼル平和条約における秘密条項を冷やかす(Cavaller337)。

B 第二版に対する検閲の状況、あるいはフリードリヒ・ヴィルヘルム二世の死を翌年

 に控えた政治状況、に変化があったか。

 

(3)当時のカントの論争状況から

 数学者ケストナー(Abraham Gotthelf Kästner, 1719-1800)への反批判(Vorländer

 ]]]Z、小倉709頁から710頁) → 資料2

@ 仮綴本Gedanken über das Vermögen der Schriftsteller, Empörungen zu bewirken”,

 1793.

A @を意識していると思われるカントの文章(『理論と実践』準備原稿)

 「数学の教授が、少なくとも数学はあらゆる革命に対して責任がないと・・・形而上学

 が国家革命の原因であるという、形而上学に対するこれまで聞いたことのない告発によ

 って・・・」(]]V127

 

(4)1795年以降のカントの著作物から

 1795年  「魂の器官について」(1796年にゼメリングの著作に掲載される。)

 17965月「哲学における最近の高慢な口調」(『ベルリン月報』)

    10月「誤解から生じた数学論争の解消」(『ベルリン月報』)

        12月「哲学における永遠平和条約の締結が間近いことの告示」(『ベルリン月報』)

 1797年 省略

 1798年 『実用的見地における人間学』、『諸学部の争い』

@ 「高慢な口調」から

 「たしかに哲学することと哲学者する(den Philosophen machen)ことの間には区別が

 ある。後者は、盲目的な信仰に束縛することによる民衆の理性に対する専制(それどころ

 か自分自身の理性に対する専制)が哲学と称されるときに、高慢な口調で生じるのである。」

 ([394Anm.

A 『諸学部の争い』から

 「〔自由な法学者としての〕哲学者の声は、なれなれしく民衆に向けられるのではなく

 (民衆は哲学者の声や著作をほとんどあるいはまったく気に留めない)、うやうやしく

 国家に向けられ、国家が民衆の法的要求を心に留めるように嘆願されているにもかかわ

 らず、〔哲学者を国家にとっての危険人物であるとののしるのである。〕」(Z89

 

3、第二補説では何が主張されているか

 

(1)政治と哲学者 ― 「理性の公的使用」([37)から

@ 国内政治と哲学者

   ・プラトン的哲人政治への批判(宇都宮136頁、小倉709頁)

     →フリードリヒ大王への批判(Cavaller338

   ・プラトン以来の要望の「現代に適切な」提起(朝永136頁、cf. Höffe177f.

   ・アリストテレスと共に「助言者」としての哲学者(Cavaller338

  ○ 哲学者も権力を握れば「理性の自由な判断をどうしてもそこなう」と語るカント

   の真意は、「市民的な地位や公職」において理性使用をすることになり、それは

  「理性の私的使用」([37)へと理性使用を狭隘化することになる、ということでは

  ないか。

A 国際政治と哲学者

    「国際政治の実践に関するこの〔カントの〕要求は革命的であり、〔『純粋理性批判』

    における〕コペルニクス的転回に比肩し得るものである。」(Höffe173

           →秘密外交から公開性へ

  ○ カントは「哲学する」という営みは平和状態の創設に寄与するものであると考えている

   のではないか。「理念」としての哲学(KrV836/B866)を目指して哲学することはみずから

   の主張の絶対化を許さない。そこでは他人の主張に耳を傾ける必要性もまた明らかになり、

   国際的な哲学的思惟の交流における「生き生きした競争心における均衡」([367)によっ

   て平和への寄与が可能になる。

 

(2)「哲学と政治との間の平和」創設への寄与(Höffe173

@ 両者の分離による平和共存

A 哲学は原則に関与する学であり、具体的現実について知的優位を主張しない。

                                   →資料3

 

おわりに

(1)「秘密」のひみつ

   ・「軽き揶揄と皮肉を交へて」(朝永136頁)

   ・「苦虫を噛み潰したような嘲罵」へと転化する「イロニー」(Gerhardt171

 ○ ヘッフェと共に哲学者と政治家の間に平和が樹立されることをカントが意図しているとして

  も、それが「秘密条項」によって保証される必要はないし、むしろその平和も公開性をもつべ

  きではないか。しかし、哲学者の発言はプロパガンダではないという前提に立つカントにとっ

  て、件の平和を阻害する要因はひとえに政治家による言論弾圧にある。それゆえ、公的な合意

  形成によって言論の自由が確保される以前に、ネゴシエーションによって哲学者の発言の自

  由を手に入れ、その議論を経て公的な言論の自由を実現するという手順が構想されているので

  はないか。その過程で生じるであろう政治家の権威の毀損を念頭に、「国家が秘密裏に哲学者

  の言論を促し、それによって有益な結果を得る」ことを認めてあげると言っているのではない

  か。

 

(2) 哲学者の役割

@『実践理性批判』の場合

  第二批判の弁証論冒頭(X108f.)では、賢人が500年に一人くらいしか現われないとしたストア

 派の哲学者の主張を念頭に、哲学者を僭称する人たちの思い上がりをくじく理論が展開される。こ

 れは『純粋理性批判』における哲学観にも通じている。しかし、第二補説における哲学者への言及

 には、そのような留保が見られない。

A制度化された「哲学部」で行われる「哲学」

  この時期のカントは、やがて『諸学部の争い』に結実するような「哲学部」の存在理由をめぐる

 思惟を展開していた。

  第二補説が提起する問題は、カントの時代状況を超えて、私たちにも突き刺さってくる。日本の

 哲学は、おおむね輸入学問として制度化され、それが大学内の制度化された「哲学科」で営まれて

 きた。グローバリゼーションに対峙しつつ、グローバル・エシックスはこの状況に対して何を語

 るだろうか。

 

 

 

資料1

「改革は、主権者自身の意志から生まれるものでなければならない。しかし、いま現実において

 はin Facto、主権者の意志は、国民の一致した意志(der Vereinigte Volkswille)ではない。そ

 のような意志は、徐々に姿を現してくるものである。―著作では、元首を、国民と同じように、

 正義に反することを見抜くことができる者として設定しなければならない。−書かずにおく

 こと(Verheimlichung)。」(]]V134

カント、北尾宏之訳「『理論と実践』準備原稿」、カント全集18、岩波書店、269

 

資料2

Abraham Gotthelf Kästner      Auf ewig ist der Krieg vermieden,

Vom ewigen Frieden 1795       Befolgt man, was der Weise spricht;

Dann halten alle Menschen Frieden,

Allein die Philosophen nicht.   Dietze134

注記 Dietzeはこのエピグラムの初出がどこであるかは不明であるとし、1800年刊行の著作か

ら引用しているが、同時に、これをカントが「哲学における永遠平和」([417)で引用して

いることにも言及している(Dietze541)。1790年、ケストナーとカントの間では書簡の往復

があり、さらにカントは、JS・ベック宛書簡(1791927日付)で数学者ケストナーの詩

作に言及している。

 

資料3

「実証的な法則に従う法に関しては経験主義者である法律家たちだけが判断できる。(中略)ア・

 プリオリな諸原理を含むものに関しては、哲学者たちだけが判断することができる。」

(]]V163f.

 カント、「遠山義孝訳『永遠平和のために』準備原稿」、カント全集18、岩波書店、294

参考文献

James Bohman and Matthias Lutz-Bachmann(ed.), Perpetual Peace. Essays on Kant’s

Cosmopolitan Ideal, The MIT Press, 1997.邦訳、紺野茂樹・田辺俊明・舟場保之訳『カントと永

遠平和 世界市民という理念について』未来社、2006.

Georg Cavaller, Pax Kantiana. Systematisch-historische Untersuchung des Entwurfs

“Zum ewigen Frieden”(1795) von Immanuel Kant, Bölau Verlag, WienKölnWeimar 1992.

Anita und Walter Dietze(Hg.), Ewiger Friede? Dokumente einer deutschen Diskussion um

1800, Gustav Kiepenheuer Verlag, Leipzig und Weimer 1989.

Volker Gerhardt, Der Thronverzicht der Philosophie. Über das moderne Verhältnis von

Philosophie und Politik bei Kant, in: O. Höffe(Hg.), Zum ewigen Frieden. Akademie Verlag,

Berlin 1995.

Otfried Höffe, Königliche Völker. Zu Kants kosmopolitischer Rechts- und

Friedenstheorie, Suhrkamp Verlag, Frankfurt am Main 2001.

Karl Vorländer, Einleitung des Herausgebers, in: IMMANUEL KANT, Kleinere Schriften

 zur Geschichtsphilosophie, Ethik und Politik, Felix Meiner Verlag, Hamburg 1973.

小倉志祥、解説、『歴史哲学論集』カント全集第十三巻、理想社、1988.

朝永三十郎『カントの平和論』改造社、1922.